【NORI COLUMN Vol.27】ほわっと いず じゃぱん?

私には何も継承することがないなぁ…。
伝えられることもない。
何をどう伝えればいいんだろう?

日本文化にまつわることに関わりがほとんど無かった私が日本文化を伝えるグループ展に参加することになった時に、ふと感じた不安。

正直、わからなかった…。

 

西洋文明の様式の中にどっぷり浸かっていた私にとって、日本文化は身近なようで遠く、あまりにも無自覚で曖昧で、自分の民族性のようなものすら危ういように感じられた。

 

私の中の日本って何?
墨を使って急ごしらえの作品が即、日本文化と言えるの?と戸惑い続けた日々…。
自分は、はたして日本人なのか?ということさえ問いになってしまう始末。

 

島国の中、単一民族でそれほど摩擦も無く、平凡に日々を送っているとそのようなことは日常では問われることもないまま過ごしてきた。

けれど、西洋という扉から芸術の世界に入って学んでいる最中、自分の中にある日本というものにぶつかる時期があった。

 

雪舟や長谷川等伯などの水墨画や極彩色鮮やかな浮世絵を改めて鑑賞し直し、日本の意匠にも触れた。
その中で展開されている大胆な構図や細部にまで注がれた意匠に対するこだわり、精巧な技の極み、粋と洒脱なセンスに面を食らい、独自の自然観に感嘆した。

高貴な人物が使用していた筆や硯を入れておく道具箱にさえ、見事な螺鈿細工が施され、蓋を開けてみるとその中に四季の風景が展開され、どこまでも自然を取り込み、その造形を生活の中の意匠にまで高めた精神性の顕れに触れた時、博物館のガラス越しに心が震えた。

 

そして、書物の中に東洋や日本を探して先人達の言葉を辿った。

明治以降の急速な近代化の中、失われつつある日本文化への危機感を彼らなりの解釈で残そうとした試みでもあったのだろう。
彼らの書いた書物の根底には、日本文化に対する誇りと共に、継承と警鐘の二つのメッセージが静かに鳴り響いているように感じられた。

 

そこで感じたことは、”私たちはいつの頃から、このような連綿と続いてきた感性をぞんざいに扱い始めたのだろうか?”という問いだった。
この遺伝子の中、残っている自分の中の日本という感覚とは一体、どんなものなのだろうか?と考え始めていた。

 

それから数年後、本格的な墨との出会いが訪れた。

墨をベースに描く方法として点描を意識的に行うことに挑戦してきた。
その中で自分なりに見つけたもの、再認識したものがあった。

それは私の中に眠っている”アミニズム”という要素だった。

筆の穂先を使い、点を打ちながらミクロがマクロへと変化してゆく過程は、まるで広大な銀河さながらの様相だった。紙面に広がる墨によるモノクロームの点描のラフスケッチから、様々な生命の原点に触れるような感覚を覚えた。点描によって描くことは、その原子の顕れとしての一粒一粒が現実の中、微細な粒子として至るところに存在し、有機的に繋がり合いながら世界が構成されいるのでないかという考えに行き着くものだった。

墨というものが作られる工程も松や竹を燃やし、その煤を集めるところから始まる。
微細な粒子である煤が集められ、動物たちの体内にある膠の助けを得て、一つの墨という塊になってゆく。

その素材から呼びかけてくるものに触発されることもあり、自分の中に蠢く微細な遺伝子の中に眠っている日本的な感触をおぼろげながら感じていたのかもしれない。

 

神は細部に宿る ーGod is in the details.

という言葉を思い出す。
万物に神が宿っているとした考えは、古代からの日本の捉え方と同じ意味合いを含む、アミニズム的考え。
ここで神という言葉が出てくるが、私は”微細で神秘的なもの”と捉えてみたい。
その微細な神秘性といつも隣り合わせで暮らしてきたのが、この国の古からの暮らしだったのではないだろうか。それは神道という形として受け継がれ、今もなお地下水脈のように続いている。

あらゆるものの中に神は宿るという視点で自然を見つめ、その恩恵を受けて暮らしてきた背景には、度重なる自然災害の影響も多々あったであろう…。

 

10年前に揺れた大地。
遠い水平線の果てから押し寄せた大海の波。
洗われた世界に今、何を見るのか?

 

今も大地は揺れ続け、

地殻変動の大変革の産道を潜り始めた世界。

助け合い、補い合うことがまたさらに増えそうな時代に、
人と人との間に距離を生んだコロナ現象。

右往左往する日々に、疲れ果てた人々の表情。

そんな時は、不安を煽るマスコミの報道から距離を置いてみる。

 

人間もこの世界を構成する微細な原子のように、一人一人が役割を担っているとしたら…。

自分の心がどう感じ、どう考え、どう行動するかで、世の中の方向性は自ずと変わってゆくのではないだろうか。

足元にあるこの地・宮城という与えられた場所の一角で、この身に触れる微細な感覚を肌の下に感じながら、自然を見つめ地道に制作を続けられたと思う。

そして、自分の中、薄っすらと浮かんできた日本というものが、少しづつ明確になってゆけばと思う。

 

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3年間、このホームページ上で連載させていただいた『NORI COLMUN』も今回で最終回となってしまいました。
自分のブログとはまた違った切り口で、美術や日本文化、そして日々のことを綴ってきました。

この3年間、私のコラムを読んでいただき有り難うございました。

そして、”コラムを書いてみませんか?”と声を掛けてくださったギャラリー親かめ子かめのスタッフのオカベサトシさん、そして、そのことを快諾してくださったギャラリー代表の亀井 勤さんに心から感謝しています。

有り難うございました。

髙橋 典子

髙橋 典子/Noriko Takahashi

画家

岩手生まれ、宮城県亘理町在住。

2004年から個展活動開始。
個展、グループ展多数。

宮城県をベースに、近年では関東・関西でも積極的に活動を行っている。

2015年から墨を使った作品を制作。その中で点描という技法を意識的に使うことにより墨をベースにしたミクストメディアも制作している。

親かめ子かめの関連する展覧会としては、2016年親かめ子かめにて個展「自然形象~Human as a part of nature」開催。また、2016年、2018年、海外遠征グループ・宙色Japan「日仏交流展SUMI」(Espace Japon/フランス・パリ)に参加。

また、文筆としては、河北新報・夕刊「まちかどエッセイ」にて連載。(2016.10〜2017.2)
その他、2014年1月から、ブログ「My Horizon」を開始。絵の製作のことや日々、感じているモノゴトを綴っている。

”描くことと書くこと”に喜びを感じながら創作活動を行っている。

HPhttps://www.norikopainter.com/
Bloghttp://noriko-takahashi.hatenablog.com/