ある日、テレビを見ていたら、日本で初め働くことになった外国人の男性に密着している番組があった。彼が日本に着いて始めにしたことは、自分の印鑑を作ること。
日本で働く際には、書類に継ぐ書類に目を通し、必ずいくつかの場所に印鑑を押すような”しきたり”がある。他の国なら、サインで済むことも日本では、物理的に加工した”自分の証”となるものが必要になることが多い。
日もとっぷりと暮れた頃、古い商店街の閉店間ぎわの小さな印鑑屋さんに飛び込み、自分の印鑑を注文して、翌朝、取りに行くという約束をかわし、ホッと満面の笑みを浮かべていたのが印象に残った。
日本では、人が生まれて亡くなった後まで、ずっと印鑑が付いて回る。
入院する時なども、本人の印鑑、身元保証人、3名ほどの別々の印鑑を要求されたりする。しょっちゅう、入退院を繰り返していた親の代わりに受付事務で、いつも4本ほどの印鑑を持ち歩いていたことがある。
手軽な三文判、とっても便利なシャチハタ印、ちょっと小さめの訂正印、そして、文字のデザインや水牛、水晶、などの素材を使用した立派な実印などがあり、何本も印鑑を持ち過ぎて、銀行の届け印がどれがどれやら分からなくなってしまうこともしばしばだったり。
数年前から、書の作家さん達と交流することが多くなって、自然と書の作品を観ることも多くなってきた。
白い和紙の空間に墨の文字が流麗に書かれている。その中にポンとその書家の印が押してあり、ポッと一角を朱色が彩っている。
その印にもその書家の個性があり、印で主張している感じに見えることもあれば、さりげない存在感を醸し出す印象を見かけることもある。
色を使う画家としての視点から見ると、印の朱色の存在というのはかなり強い印象を持ってしまう。それは、ほんの少し、ポァッとした朱色であったとしても、ちょっと気になる存在なのだ。
この作品は、印とのバランスが良いなぁ〜とか、この作品は、印に支えられてるなぁ・・・とか全体の紙の構成で見てしまう傾向がある。
それほどに朱色の印象は影響力があり、押す位置で印象もガラッと変わってしまう。その作家のセンスを表すものだのだろうなぁといった感じで鑑賞していたりする。
以前、親かめ子かめで、篆刻ワークショップに参加したことがあった。
書家で篆刻家の近藤 直希さんの手ほどきを受けた。
石に文字を刻むということが歴史を物語ってきたこと、そして、文字の歴史と一番古い歴史を持つものだと改めて感じさせるものだと語ってくれた。
好みの文字の書体を辞典の中から選び取り、デザインしてゆく。
自分の名前の一文字を取り出してみても、いろいろなバリエーションがあり、見ていて興味が尽きない。
その中から、一つの書体を選び、下絵を書き、それを転写し、彫り始める。
曲線をたくさん使いたかったが、それは難しいということで、直線的な文字を選ぶことに。ある程度、彫り進め、近藤先生に調整をしてもらい、完成させた。
印泥に石をググっと押しつけて、和紙に捺印してみた。
世界に一つだけの印が出来上がった。
やはり物作りは楽しいと思わせてくれたひと時でもあった。
今年の3月頃から世界中を席巻したコロナウィルス。
”ステイホーム”始まりの頃にラジオを聴いていたら、在宅ワークをしている管理職の男性が90分もかけて電車に乗って、会社に向かわなくてはならないことがあるという話が流れてきた。
会社に着いてすることとは、たまった書類に目を通し、印鑑を押すこと。そのひとつの印鑑を押すだけのために会社に行くという話だった。
印鑑一つのための90分、なんともご苦労さまなことだとラジオを聴きながら思っていた。
このコロナウィルスでオフィスワークの人達の多くは、在宅ワークが主流になりつつある。
あれ??家でもできるじゃん!みたいなことが増えて、さまざまなことに気づいたということも多かったのではないだろうか。
デジタル化が進み、だいぶ前から、印鑑を見直す傾向はあった。印鑑ではなくサインにするとか文書の簡素化がかなり進んきているようだ。
また、働く時の必需品の便利な印鑑・シャチハタの(株)シャチハタでは、かなり前から電子印鑑なるものが登場していて、かなり定着しているとか。
コロナ禍によって、さまざまな生活様式が否応なしに変化させられる昨今の状態ではあるが、今までの暮らし自体を見直せる好機と捉えることも出来る。
コロナ禍で家に居る時間が多くなり、youtubeを観ている時間も増えた。
最近、YouTubeを観ていた時、公文書を全てデジタル化した国についての話になった。
デジタル化したものは、電子の記録媒体自体が寿命が短く限られており、その使用期限のたびに再更新が何度も必要になってきて、かえって手間がかかり、管理が大変だという内容だった。
そこで記録として文書を残す際に、この世で一番、何が半永久的かという話になった。
頭の中にエジプトの象形文字がたくさん浮かんだ私は、すかさず「石版じゃないかなぁ」と思わず画面越しに、呟いてしまった。
その後、画面の中から『石板ですかねぇ〜』という司会者の一言が返ってきて大笑いしてしまった。
これは極端な例だけど、石はある意味、最強なのかと思ってしまった。
さらに言えば、和紙と墨という組み合わせもかなり保存の仕方によっては、記録媒体としても優秀だと思うのだが。
コロナ禍で菅政権になってから、印鑑レス化を押し進めようという流れが出てきた。
確かに印鑑レスになるのは”合理的配慮”だとは思うが、ここぞという時の捺印はあってもいいのかもしれない。印を押すという行為自体が、何かを決意することだったり、完結することにも繋がるような特別なもののように感じるからだ。
最後に、私個人の見解だけれど、印鑑ではなく、拇印ではダメなのかなぁといつも思ってしまう。けして失くすことはないし、その人であることを立証する絶対的な証のように思えてならない。
長い間、絵の裏にこっそり拇印を押している。
これが私が描きましたという証になるから。
これがやはり原始的で、普遍的で究極の印のように思えるのだが…。
これって極端すぎますかね?
髙橋 典子/Noriko Takahashi
画家
岩手生まれ、宮城県亘理町在住。
2004年から個展活動開始。
個展、グループ展多数。
宮城県をベースに、近年では関東・関西でも積極的に活動を行っている。
2015年から墨を使った作品を制作。その中で点描という技法を意識的に使うことにより墨をベースにしたミクストメディアも制作している。
親かめ子かめの関連する展覧会としては、2016年親かめ子かめにて個展「自然形象~Human as a part of nature」開催。また、2016年、2018年、海外遠征グループ・宙色Japan「日仏交流展SUMI」(Espace Japon/フランス・パリ)に参加。
また、文筆としては、河北新報・夕刊「まちかどエッセイ」にて連載。(2016.10〜2017.2)
その他、2014年1月から、ブログ「My Horizon」を開始。絵の製作のことや日々、感じているモノゴトを綴っている。
”描くことと書くこと”に喜びを感じながら創作活動を行っている。
HPhttps://www.norikopainter.com/Bloghttp://noriko-takahashi.hatenablog.com/