秋になると空気が澄んでくるのを感じる。
山脈を彩る紅葉、収穫祭、多くのものが豊穣の大地から、恵みとして彩られる季節。
それとともに夜の時間の長さが増す。
人恋しくなってみたり、寂しさがくっきりと際立つ気配も含む、秋はそんなせつない季節でもある。
満月がくっきりときれいに見えた夜、
頭の中、ふっと浮かんだ日本の童話「かぐや姫」
かぐや姫が竹の中から生まれ、成長し、月の世界へ帰って行ってしまう。
誰しもの脳裏に刻まれている物語。
数年前、高畑 勲監督の遺作のアニメーションでこの物語を改めて観た。
かぐや姫が赤ちゃんの頃、やっと立っちして、よろよろとおぼつかない足どりで、一歩一歩、歩く。長いこと子供に恵まれなかったお爺さんとお婆さんが喜びながら大事に大事に育ててゆく姿を見て、生きていることの輝きが眩しくて、せつなくて、自然と涙が溢れてきた記憶がある。
生きていることの喜びと悲しさはいつも背中あわせ。
この場に留まっている時間は短く、
共にいられる時間も限られている。
そんな儚い時間を生きている。
私たちはせつなさの中、生きているとも言える。
もののあわれ
この言葉は、平安時代に生まれた。この中の「あわれ(あはれ)」は、「哀れ」と表現されているが、それは物悲しく儚いというイメージだけではなく、本来は、讃嘆や愛情深く惹かれる心の動きを意味していたとされる。移ろう季節の中、四季折々に育まれる自然の表情を慈しみながら共に愛で味わうように、自分自身の喜怒哀楽の中から生まれてくるしみじみとした情趣の全体を称して”もののあわれ”と呼んでいたという。
とても古い言葉なのだが、この言葉の持つ感覚的意味合いは、けして過去のものではないと感じるのです。
そして、自然災害と日本人、自然災害と東北ということから生まれてくる”もののあわれ”という感覚があるのではないかと思うのです。
東日本大震災の当時は、言葉では到底追いつけない気持ちがあった。
言葉など意味がないとさえ思えた…。
けれど、時間の流れ共になんとなく心の中で浮上してきた言葉が”もののあわれ”だった。
さまざまな自然の持つ力を経験しながらも、この地で自然と向き合い、その中で生かされ、そして、生き抜いてきた民族として、東北の民がいたのではないだろうかと想像する時、地層の中に地殻変動の記憶が刻み込まれているように、経験という記憶の蓄積が、独自の感受性や情緒性などの精神の層となって私たちの遺伝子の中に確実に有るものではないかと…。
そして、その中で生まれてきた言葉として”もののあわれ”というものが存在するのではないだろうかと感じたのです。
人の出会いや別れ、人の生き死にに向き合うたび、人生の短さと儚さを身をもって経験してゆく中で、自分の精神の根っこにある言葉として、私の中、”もののあわれ”という言葉がリアリティーをもってそこにあるような気がしてなりません。
その声、
その眼差し、
その体温に触れていたとしても、
それは、永遠ではない。
いつかは消え去って、どこにも無くなってしまう。
その人の瞳に映る自分を見つけた時、一瞬の内にある永遠をそこに見つけたような気持ちになってしまうのも、一つのもののあわれであるとそう感じてしまうのです。
参考文献・サントリー美術館HP「もののあはれと日本の美」
髙橋 典子
画家/ライター
1970年、岩手生まれ、宮城県亘理町在住。
2004年から個展活動開始。
個展、グループ展多数。
Horizon(水平線・地平線)をテーマに、日常の中、自己が感じたリアリティーを色彩に置き換えた半具象的な平面作品をミクストメディアで製作。
宮城県をベースとし、関東・関西でも展示。
2016年親かめ子かめにて個展「自然形象~Human as a part of nature」開催。
2016年、2018年、海外遠征グループ・宙色Japan「日仏交流展SUMI」(Espace Japon/フランス・パリ)に参加。
文筆作業として、河北新報・夕刊「まちかどエッセイ」にて連載。
(2016年10月から2017年2月)
また、2014年1月から、ブログ「My Horizon」を開始。
絵の製作のことや日々、感じているモノゴトを綴っている。
”描くことと書くこと”に喜びを感じながら創作活動を行っている。